【MBTI】ユング「タイプ論」で定義される外向(E)と内向(I)とは?

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前回、「【MBTI】MBTIへのいざない①:タイプ論の概論と外向(E)と内向(I)に関する誤解」という記事を記載したが、今回は原著の「ユング(タイプ論)」に記載されている、外交(E)と内向(I)の定義を見ていきたいと思う。

ユング「タイプ論」は、「外向的」と「内向的」という人間の2つのタイプと、そこから派生する4つの型である感情・感覚・理論・直観について600ページにも渡り記載されている。文章が、大学入試の現代文を読んでいる感じで、難しい。

全部で11章からなり、1-9章までは、過去の人類の精神史を古代から遡ってタイプ論の問題を記述しており、最後の10章で、先人のタイプ論を元にした上で自身が提唱するタイプ論を記載している。

このブログを書いている時点では、1-9章をすっ飛ばして(あまりにも長かったので)、結論の10章だけを読んで記載しているので、理解が浅くなっている部分があるかもしれないことを最初に明記しておく。

シニカルかつ自信満々のユング

序文でこのように記載されている。

私のタイプ論は長年の臨床経験の結果であり、しかもこの経験は書斎派の心理学者にはまったく窺い知ることのできないものであることを強調しておきたい。私はなによりもまず医師であり、臨床心理療法家であり、私の心理学の定式はすべて、日々の困難な職業労働の経験から生まれたものである。

(中略)

素人にとって、私のある種の発言が異様に思えたり、私のタイプ論がのどかなほど静かな書斎の産物のように思えるのも、無理からぬところである。しかしそうしたおめでたい態度では有効な批判をなしうるとは思えないのである。

非常に面白いと感じた。自分が提唱するタイプ論は、「医師として生身の人間と接した経験から帰納的に導き出したものであり、机上の空論をこねくり回したものではないので、そこら辺の心理学者と一緒にしないでほしい」的な、まるで書斎派の心理学者に恨みでもあったかのような書き方をしている。最後の文章なんかは、批判してもいいけど、レベルが違うから意に介さぬよと言わんばかりで、非常に人間味が出ているなと感じた。

ちなみに、帰納的に関しては、ユングは「ア・プリオリな演繹ではなく、むしろ経験によて得られた洞察からの演繹的な説明」と述べている。それは、帰納的ということではないのか?と思うのだが。

ユングの定義する内向(I)と外向(E)

内向型は主体を客体より上に置き、外向型は下に置く

本では、他者や外界の出来事を「客体」、自我や主観的心理的な事柄を「主体」と呼称している。

内向(I)

  • 客体ではなく、客体から離れて主体自身への心理的過程に関心を向ける
  • 主体を客体より高い価値水準に置く。少なくとも客体に対抗しようとする
  • 客体は主体に対する副次的な意味・シンボル的な意味しか持たない
  • 仮に、客体が感情の対象となったとしても、それは客体の現実的な個性に関心を持つわけではなく、それによってもたらされる自身の感情体験に関心を持つ

外向(E)

  • 関心・意識は、主体から離れて、客体・外界へ向かう。それは、外界に対して期待しているから
  • 主体を客体より下に置き、客体に高い価値を与える。主体は常に副次的な意味しか持たない。
  • 主観的な意見よりも、客体の方が意識を決定する因子として大きな役割を演じている。

こうして列挙すると、内向型は周囲と対抗しようとする嫌なタイプじゃんと私は思った。

先日の飲み会でMBTIの話になって、その場で診断した友人がESTJと出て、私は個人的にビックリしたのだが、その人は

「自分は、今日の飲み会みたいに人と会って話をするとエネルギーもらって元気になるんだよね。今もエネルギーもらっている」と言っていて、まさに「客体によって主体のエネルギーが引き上げられている」ことを指していたのだなと振り返ってみて思った。

ちなみに自分は内向タイプであり、人と会うのも嫌いではないが、こうして1人でブログを書いている時や、リサーチしたり、考え事したりしている時の方がエネルギーをもらっている感じがするので、エネルギー論と絡めたユングの説明は、一理あるのかなと感じた。

EからI・IからEに変化することはあるのか?

ユングは本では結論づけてはいないが、下記のように記載している

  • 時にはごく幼い子供でもすでにあるタイプの構えがはっきり認められるという事実がある→生得的なものではないか?両親の影響の重要性を過小評価するつもりはないが、決定的要因は子供の素質の方に求めるべきだと結論せざるを得ない。
  • 両親などからの異常な外的影響が干渉して、タイプが捻じ曲げられ、偽造されてしまった場合には、後になってその人は神経症になることが多い

これらから察するに、EからI・IからEへの後天的は変更はなさそうである。

とはいえ、ユングは面白い含みを残している。

個人に固有の素質に関してであるが、これに関して私が言えるのは、明らかに一方にはどのタイプにも適応できる大きな融通性もしくは能力を持っている人がいる、ということだけである。このことには我々の知識がまだ及んでいない原因・最終的には生理的な原因が関わっているのかもしれない。そうである可能性は私の見る限りかなり高いようである。

ユング「タイプ論」

外向・内向は、利き手のようにどちらかが優位に作用しているのが一般的ではあるものの、一部の人間は、外向も内向も同じように持っているように見える(場面に応じて臨機応変に適応できる能力を、ストレスなく発揮できる)人がいるとのこと。

利き手は私の例えだが、確かに、赤ちゃんでもスプーンを持つときに、親がどちらの手で持ちなさいと指示することなく、自然に右手か左手で持つようになり、それが優位(利き手)として定着する。しかし、一部には、後天的に練習して利き手でない方の手でも、利き手と同じくらい箸を上手に使える人もいる。

サッカーでも両利きの選手がいて、傍から見たらどっちが利き足なのかわからないくらいに、両方が同等のレベルに達している人もいる。プロなら尚更多いだろう。

その場合、少なくとも周囲から見る限りにおいては、EタイプなのかIタイプなのか分からないだろう。もしかしたら、内向なのか外向なのか、本人でさえも分からないくらいになっているかもしれない。

3,4行程度でサラッと書かれているだけだが、ユングが20年の研究観察の結果をもとにしても、さらにこうした含みを残しているのは興味深いし、誠実というか徹底的に科学者であろうとしていたのかなとも読み取れる。

意識と無意識。無意識の補償作用に関して

  • 全く一方のメカニズムだけを備えていて、他方のメカニズムは完全に退化しているという意味で純粋なタイプはない。あるタイプの構えとは常に一方のメカニズムの相対的優位を意味しているに過ぎない
  • はっきりしたタイプのいずれにも、そのタイプの一面性を補償しようとする特別な傾向が、すなわち心の平衡を保とうとする意味で生物学的に合目的な傾向が内在している。
  • 意識に対する無意識の関係は補償的なもの。無意識は未分化な機能
  • 外向型の無意識の中には強度の自己中心的傾向が指摘されるはず
  • 無意識は補償的なものだが、意識から無視されることによって、そのエネルギーを奪われるにつれて破壊的な性格を帯び、その途端に補償的であることをやめてしまう

外向型を例にとると、意識下では内向より外向が優位に働いていて、周囲に向けてエネルギーを求めている。一方でそれだけだと心のバランスを保てないので、無意識下では逆に内向が優位に働き、周囲からエネルギーを奪う動きになるとのこと。

そして、この意識と無意識のバランスが重要で、意識を無意識が完全に抑圧すると(外向型の場合、完全に外向100%になる)、無意識はますます幼児的太古的になり、意識と明白に対立する立場をとるようになる。結果として、無意識も症候を表し、破滅的になる。

文学的でわかりづらいところがあるが、面白いと感じるのは

  • 意識・無意識間の心のバランスは重要だが、意識の方が優位なので、50:50のバランスではない
  • とはいえ、意識下のタイプ100%にして、無意識を完全に蔑ろにしても、無意識は完全に消えることなく、むしろサポートを途中で放棄して、結果破滅にまで追い込む力がある(無意識の力強い)

ということ。

心のバランスに関して、「MBTIへのいざない」では下記の例が記載されている。

たとえば外向直観タイプ(ENFP・ENTP)は、1日を通してアイデアや理論モデルを作ることなどにエネルギーを使うが、一日の終わりには静かに内省する時間をとって、何かについて決めたり、一日の出来事を整理したりする。こうすることで、彼らは落ち着いて家族の話に耳を傾けたりするのである。これは、なにも「さぁ、これから自分の指向とのバランスを取るために、内省しよう」と意識的に考えてやっていることではなく、あくまでもその人自身の心の健康のために本能のようなものとして自然に起こっている。

MBTIへのいざない

私たちが日常で感じている当たり前の帰結になってしまうが、外向型であれば、人と会って話をするのが好きだけれども、ずっとそればかりしていると疲れてきて1人の時間を持ちたいと思って(無意識が顔を覗かせてきている)、1人の時間を確保している。一方で内向型も、全く人と会わないというのではなく、1人で考え事をしているのが好きだけれども、たまには人と会って話をしてみたいと思い、ランチをしたりする。それを本能的にやっているのであって、どちらかに意識的に振り切りすぎるとバランスが崩れて、無意識が対立し始め、心に支障をきたすということだろう。

なので、たとえば内向型の人で、「自分は人と会って話すと基本疲れるからずっと1人でいいや。本読んだり考え事しているだけで良い」など振り切ってしまうと、無意識では「でも、なんか寂しいなぁ。誰かと会って話したい」と顔を覗かせるようになる。

そして、その時に本能に従って行動しないで「どうせ自分と話合う人なんていないし、人と会うと疲れるから、もういい」などと意固地になって無視してしまうと、拗らせてしまい人当たりが悪くなってしまうなどとなるのだろう。

まとめようとしたが、原著が難解でなかなかまとまりきらなかった感じがあるな。思ったよりも時間がかかってしまった。

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