【破局】遠野 遥:感情を自己防衛的に規範でコーティングするゾンビ化した人間

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第163回芥川賞受賞された、円城塔さんの小説「道化師の蝶」の感想と考察を記載。

前回読んだのが「道化師の蝶」だったので、比較すると、難解さがなく、しかも現実世界のリアリティある感じで読みやすかった。

あらすじ

主人公「陽介」は、慶應大学法学部の4年生。高校時代に所属していたラグビー部のコーチとして熱心に指導しており、自分の身体も鍛え上げている。自分は公務員を目指して勉強中で、政治家を目指す恋人もいて、絵に描いたような充実したキャンパスライフを送る大学生である。しかし、自分がこれをやりたいという感情や意志は全くなく、自分にも他人にも厳しい規範意識を元にのみ行動しており、その行動の結果、破局が訪れる。

社会規範で自分の感情をコーティング

陽介は社会規範・マナーに対して忠実で、かつ努力に関して自分にも他人にも厳しい。それが当たり前と考えており、何も不思議に感じていない。

実際に、高校時代はラグビー部として県大会の準々決勝にまで活躍し、慶應大学に入り、大学に入ってからも当たり前のように体を鍛え上げ、公務員を目指して勉強している、側から見れば一見、文武両道、非の打ちどころがないような人間である。

しかし、彼の思考は少々歪だ。

例えば、なぜ公務員を目指したいのかという本人の気持ちは描かれておらず、友達や彼女からも

そういえば、お前はどうして公務員になりたいんだっけな。

「破局」遠野 遥

に対しては、特に返信がなく終わっている。

「目の前に座る女の子に脚をぶつけたい」けれど「公務員試験を受ける人がそんなことをしてはいけない」 「女の子には優しくしなければいけないと父に教わった」から優しくするけど「どうしてかはわからない」。

「破局」遠野 遥

という感じで、自分がこうしたい・こうありたいという感情は全く出てこず、すぐに社会規範を持ち出して、物事を「完結した」ものとしてタスク処理のような感じで処理していってしまう。

とはいえ、自分が設定した目的に対して、何の疑問も持たずにストイックに行動できるので、ラグビーでも結果を残し、体も鍛え上げ、公務員試験も難なく突破できるという強みがある。感情に関して目を向けない・深く考えずに次に進んでいく感じは、ラグビーの高校生の指導のセリフで現れている。

俺は現役だったとき、実際に自分をゾンビだと思い込むようにしていて、これはけっこう有効だったと思ってる。ゾンビだから何度でも立ち上がるのは当然だし、ゾンビは痛みや疲れなんて感じない。死んでるわけだから、何もわからない。自分よりでかいやつにタックルするのは怖いかもしれないけど、そういう恐怖もなくなる。ゾンビは怖いとか思わないから。むしろ怖がられるほうだから。 銃 を向けられたってまったく 怯まないんだ、でかいやつが走ってきたくらいで怖いはずないだろ?

「破局」遠野 遥

何か辛いことや悲しいことがあったとしても、社会規範という基準ですぐにコーティングして、何も解決していないのに、あたかも解決したかのように処理して次に進んでいくゾンビ思考である。自分の感情を見つめるのが怖いのかもしれない。

社会規範とは本来時代とともに変わりうるもので、絶対の基準でもないのだが、本人の中では判断基準となっていて「社会的にダメとなっているから、これはダメ」「父親に言われかたら正しい」という、良い意味では合理的な、悪い意味では何の問題解決にもなっていない感じで物事を進めている。自己防衛的に無意識に問題そのものを無かったことにしている。

善悪に関して、社会規範を軸に白黒の二軸で物事を考えており、本来はグレーな領域もたくさんあり、グラデーションのある世界なのに、白黒の二軸でロボット的に物事を進めている。小説の中の陽介は人間味は全くない。

恋愛において生じるバグ

上記のルールへの依存による短絡的で直線的な判断は、恋愛においてはバグを生み出す。というのは、恋愛は相手がいて、感情という、ルールとは対極に位置するものだからだ。

そこでも、陽介は、このシチュエーションでは、こうした切り返しを行うのが、礼儀や社会通念上良いだろうという判断を元に行動し、いつまで経っても人間味は感じられないが、うまく対応できている部分もある。

特に面白かったわけではないけれど、私は少し笑った。こちらが笑うのを期待しているような話しぶりだったから、笑うのが礼儀だと思った。彼女も笑顔を見せてくれたから、笑ってみてよかった。

「破局」遠野 遥

しかし、その判断や認識で良かったのか?となぜかいつも第三者的な目線で自問自答している。

灯は笑顔のよく似合う子で、灯にはずっと笑っていて欲しいと私は願っていたはずだが、そういう認識で合っているか?

「破局」遠野 遥

ルールを軸に行動することは、ルールであるからにして今の民衆の総意を表しているものであるから社会的支持を得やすく、かつ、思考しなくて済むという点では合理的かつ楽だし、強みを発揮する場面もあるだろう。そうした人間が増えてきているかどうかは分からないが、自分の感情がそもそもない、もしくはルールで自己防衛的にすぐにコーティングして、何も無かったかのように立ち上がってくる姿を、「ゾンビ化した人間」と指しているのは言い得て妙だと感じた。

「無敵の人」(社会的に失うものが何も無いために、犯罪を起こすことに何の躊躇もない人を意味するインターネットスラング)と、指している内容は違えど似たものを感じた。

遠野さんのインタビュー記事

こちらの、作者、遠野さんへのインタビュー記事が面白かった。

(3ページ目)「美術館に行くたび疎外感があった」平成生まれの芥川賞作家・遠野遥さんが“小説を書くこと”を選んだ理由 | 文春オンライン
(3ページ目) ではあのキビキビとした文体は、血の滲むような文章修行の賜物、といったことではない?「強いて挙げれば、小説を書き始めたころ、意識的に取り組んだことはありました。 大学生の時分です。最初からオリジナルの…
  • そうですね。自分自身もふだんかなり視覚が優位なので、書くものも自然とそうなるのかもしれません。外出するときはイヤホンを付けて外部の音はシャットアウトしていることも多いので。
  • 陽介が店で肉を食べているとき、隣に座った男が、足を開いてチュッチュッとすごい音を立てながら肉を食うシーンがあります。ああいう音を立てるのは僕自身も本当に嫌だなと思っていて。そういうのはやめようというマナーが少しでも広まればいいと思いながら書きました。『破局』全編に伝えたいメッセージというのは特に込めていませんが、ひとつでもこの作品で伝えたいことを挙げろと言われたら、『音を立てて食べるのはやめよう』ということになりますね」
  • ガチガチの『文学ファン』以外にも広く読んでもらえたらうれしい。そういう気持ちは、小説を書き始めたころからずっとあります。そのために文体はできるだけ平易なものとなるよう工夫していますし、文章を飾り付ける修飾語も極力抑えています。
  • 大学生の時分です。最初からオリジナルの文体をゼロから編み出そうというのも無理がある。何かお手本を決めたほうがいいと思い、夏目漱石全集を傍らに置いて書いていた。書き方に迷ったら、夏目漱石はどう書いてるんだろうといちいち参照したんです。
  • ライブって、失敗したらもうおしまいという緊張感がすごい。あれがちょっとつらかった。小説は失敗しても書き直せばいいし、人前に出なくていい。誰にも邪魔されないところがすごく気に入りました」
出典:https://bunshun.jp/articles/-/39078

破局で伝えたいメッセージを1つ挙げるとすれば、「音を立てて食べるのはやめよう」。え、そこ!?という感じだが、ジョークなのか本当なのか。

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