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【道化師の蝶】円城塔:着想はどこから来てどこに行くのか?

この記事は約7分で読めます。

第146回芥川賞受賞された、円城塔さんの小説「道化師の蝶」の感想と考察を記載。

内容が難解で、自分の読解力が低かったからか、1回読んだだけでは、「着想について書かれているのかな?」というくらいで、サッパリ分からず、読み返して、ようやく少しは理解できたかできてないかという感じ。

純文学とも、ミステリとも、SFとも違う感じで、作品の構造自体が一種の言語遊戯を駆使しているとも言える。内容は難解なのだが、文章はサラサラと読めるという、言葉に形容し難い読後感があった。また、着想(アイデア)に関して、こんな見方があるのかと新鮮さもあった。

なお、ネタバレ含みますので、この記事は読了後に読むことをおすすめします。

あらすじ

人工言語である無活用ラテン語で記された小説『猫の下で読むに限る』。その正体不明の作家を追って、言葉は世界中を飛びまわる。帽子をすりぬける蝶が飛行機の中を舞うとき、「言葉」の網が振りかざされる。希代の多言語作家「友幸友幸」と、資産家A・A・エイブラムスの、言語をめぐって連環してゆく物語。

着想と言語化の関係は?

本作では、蝶と蝶を捕まえるための虫取り網が登場する。蝶は着想(アイデア)の比喩であり、虫取り網はアイデアを捕まえる行為を指している。

エイブラムス氏は、虫取り網を持って蝶を捕まえる(つまり着想を捕まえる)のを生業としているが、下記に記載があるように、悪い着想は網をすり抜けるので、良い着想(つまり、まだ誰も発見したことのない(と本人が思っている)アイデア)だけを網に引っ掛けて、それを実用化して事業として大成させようとしている。

「わたしの仕事というのはですな、こうして着想を捕まえて歩くことなのです。」

「道化師の蝶 」円城塔

そして、網は文字であり、着想を捕まえるということは、言語化するということでもある。今や世に言語はたくさんあり、同じようなことを指していても言語間でニュアンスが異なることは多い。

まず、アイデアを言語に落とし込むという時点で、その言語の制約に我々は取り憑かれるわけで、その時点で自分が考えた内容を正確に表現するのは難しくなる。言葉が足りないということだ。さらに、言語間でニュアンスが異なることも多いので、同じ内容を言葉として伝えていたとしても、翻訳の過程で、本来の意図がそのまま伝わらないばかりか、言語間の差異によって新たに別の解釈が入り込んでしまうことで元のアイデアからはさらにかけ離れてしまう。

言語化に関しては、こちらの記事で記載。

https://kazulog.fun/note/how-effective-communicators-organize-their-thoughts/

その網には文字たちが織り込まれている。でも小さな文字ではない。糸たちのなす脈絡が伸びて 捩じれて互いに絡み、表を見せて裏へと返る文字たちが、本来存在しない脈絡を摑む。そんな呪文だ。わたしは彼女が手にするその虫採り網を見た覚えがないが、その働きは明らかにわかる。

「道化師の蝶 」円城塔

というわけで、本作では無活用ラテン語という人工言語が登場するのだが、これは稀代の多言語作家である友幸友幸(別の節では、着想として行動する)は、最初は、ありとあらゆる言語を学び、着想を記すのだが、言語化と言語間のニュアンスの違いによる着想の共有の限界を感じて、誰も使用しない言語であれば、そうした制約もないのではとの考えに至り、その例として無活用ラテン語が登場する。

アイデアは自分の頭の中で自由に発想している分には自由なのだが、そこに止まっていては社会的には無価値なわけで、とすると、人に共有しないといけず、現段階の技術ではテレパシーはできないので、どう分かりやすく説明すべきかと考え始める時点で、考えの制約と言葉の制約に阻まれてしまう。

誰も使用しない言語では、好きなことを野放図に書ける。誰かに再利用されることが頭に浮かぶと、途端に言葉はざわめきはじめる。まずこの字の読み方を説明するべきなのではという気分になって、内容がどんどん取り残される。ここには何が書かれているのか、説明したい気分が起こる。何かを解説することと、何が解説されているのかを示すことは多少異なる。そこに横たわる差異は言葉によって違うのではと不安が襲う。 でもしかし、そこでの矛盾の解消やら生成やらを、単語で行わなければならないという決まりはない。そんな事態が文法的に解消されたり生成されたりする言葉というのはないものだろうか。

「道化師の蝶 」円城塔

というわけで、本作では、言語化を着想の対極と位置付けているように思われる。

その網が捕まえるのは幸運ではなく、その網が捕まえたものが幸運となる。

「道化師の蝶 」円城塔

アイデアは多くの人に言語を持って共有されなければ、現世界では実態として価値を生まない。なので、多くの優れたアイデアはあるものの、言語間でニュアンスの差異なく(網の交点)、たまたま上手く多くの人に共有できたアイデアが幸運となる。

着想をたくさん得ようとする行為は、上手くいかない!?

できるだけ多くの斬新なアイデアを捕まえたいという、友幸友幸やエイブラハムに対して、老人は、アイデアを量で勝負するのは得策ではないと述べている。

アイデア同士が否定しあって何も残らなくなると。

「机の上に置いておくには綺麗だろうがね、こうして飛ばすには荷が勝ちすぎる。いずれ全部が否定し合って、何も残らなくなってしまうぞ。それが望みなら止めはしないが」

「道化師の蝶 」円城塔

これは、情報がありすぎるとかえって選択に迷うのと似ている。アイデアがありすぎると、1つの事象に対して肯定的なアイデアと否定的なアイデアも考えてしまい、それらが打ち消し合う可能性があると。

斬新なアイデアを生み出したいと思うのであれば、あれもこれもと情報収集を欲張らずに、逆に制約条件をつけるのが良いということなのだろう。これは体感的にもそうである。

人が着想を思いつくのではなく、着想はすでに存在している

本作では、着想である、蝶ならびに友幸友幸からの視点も描かれている点が面白い。友幸友幸は希代の多言語作家であり、各国を旅しながら、その土地の言語のうち、耳に入る音を片っ端から発話者にさえ拘らずひたすら記し続けている。

これは、着想というのは人が能動的に思いつくものではなく、すでに存在しており蝶のように、いつかは人に見つけられるがごとく、ヒラヒラと舞っているものであるということを示しているのだろう。しかもそれは、時間や場所に縛られない。

「あなたは蝶を捕まえてなどいないのですよ。蝶に勝手についてきただけだ」一打ちごとに、過去と未来を否定して飛ぶ。かつて起こったとされることたちも、これから起こることどもも。裏と表を入れ替えながら、そのたびごとに羽の格子の中の色を入れ替えながら。

「道化師の蝶 」円城塔

自分が、「今までの世にはないXXXを発見した!」と仮に発見した場合には、喜び勇むかもしれないが、そのアイデア自体も、もしかしたら過去に同じようなことを考えていた人がすでにいて、その時にはたまたま日の目を浴びなかったかもしれないし(地動説など)、そのアイデア自体も過去の人たちが生み出したアイデアの要素の総体である。

また、本作では意気揚々とこの世にはまだ存在しない蝶(着想)を見つけたエイブラムス氏が鱗翅目研究科の老人の元に駆け込んだ時、

何故それを発見したのが自分ではなかったのかと憤るに決まっている。貴重な標本なんていうものが他人の手で採取されるくらいなら、決して見つからないままに失われた方がどれほどましか

「道化師の蝶 」円城塔

と、老人は裏で話し、過去の、他の国の似たような着想をかき集めて、あたかも自分はすでに発見していたかのようにエイブラムス氏に対応する様子が記載されている。そして、実際にエイブラムス氏の着想は世に出ないまま放置になってしまう。

これも、斬新なアイデアを発見した場合に、その分野の第一人者の「手柄を渡したくない」心理が働いて、意図的にアイデアそのものを査読などでなかったものにしてしまう現実世界のあるある(?)を表現しているのかもしれない。

七面倒くさい道筋を辿り、ようやくなんとかかろうじて雄に会うことができ、ほっとしている。こうして卵を産むことができたのだから、屹度、雄には会えたのだ。わたしたちの種が少ない、これが理由だ。とにかくなんとか種を維持するほどの繁殖だけはしているのだが、繁殖の作法は固定に到らず流転し続け、いちいちが秘密に 鎖されている。その度ごとに、場に機に応じた方策を、なんとか捻り出さねばならない。なにごとにも適した時と場所と方法があるはずであり、どこでも通用するものなどは結局中途半端な紛い物であるにすぎない。  時と場所が変化をすれば、繁殖の方法だって変化をせずにはいられない。

「道化師の蝶 」円城塔

アイデアの立場からすると、世の誰もが思いついていないような斬新なアイデアでさえも、適した時期と場所を選んで人によって見つけられるように動いているのであり、人はたまたまそのタイミングで見つけただけということになるだろう。予定調和なのだ。

iPhoneの発明も、ChatGPTの進化も、着想の立場からすると「そろそろこの技術やアイデアをこの社会に導入しても良いかな」と考えて、然るべきタイミングと場所を選んで人間に付与しているのだろう。

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