第146回芥川賞受賞された、田中慎弥さんの小説「共喰い」の感想と考察を記載。
田中さんは、芥川賞受賞会見で女優のシャーリー・マクレーンのアカデミー賞受賞時の発言を引用し、「シャーリー・マクレーンが『私がもらって当然だと思う』と言ったそうですが、だいたいそんな感じ」、さらに石原慎太郎都知事(当時)が審査員を務めていたことから「都知事閣下と東京都民各位のために、もらっといてやる」と言い放ち、たちまち時の人となった。また、本作は菅田将暉主演で映画化された。
なお、ネタバレ含みますので、この記事は読了後に読むことをおすすめします。
あらすじ
昭和63年、山口県下関市の「川辺」と呼ばれる場所で父親とその愛人と3人で暮らす高校生の遠馬は、性行為の際に相手の女性を殴るという粗暴な性癖をもつ父親・円を軽べつしていた。しかし、交際中の幼なじみ・千種に対しはずみで暴力を振るってしまった遠馬は、自分にも父親と“同じ血”が流れていることを自覚させられる。川辺の田舎町を舞台に起こる、逃げ場のない血と性の問題を描いた作品。
遠馬の産みの母親の仁子さんは、戦争中、空襲に遭い、右腕の手首から先がなく、義手をしていた。
性暴力という性癖!?
この作品は、生々しい性と暴力に関して一貫して描写されている。父、円はセックスの時に殴りつけるという粗暴な性癖を持っている。そんな性癖があるのか?という感じだが、現実世界でも、あるだろう。世の中にはいろんな特殊性癖がある。
遠馬の産みの母親の仁子は、戦争中、空襲に遭い、右腕の手首から先がなく、義手をしていた。その仁子のセリフが個人的には印象的で
「相手がちゃんと女じゃったら、やるんよ、あいつは。ああいうことせんと、男にならんそよ。」
「共喰い」田中慎弥
と、元夫、円の性癖をどうしようもないと評しつつも、同時に
あの男、恐ろしげな目で、あんたもここんとこそうなっちょる、その目でうちのこと見下ろしてからいね、自分が気持ようなりたいだけで殴るんじゃけどよ、あの目は右手のないそを 笑うとりはせんかった。ばかにしとりはせんかった。ただ殴りよるだけじゃった。」
「共喰い」田中慎弥
と一部肯定している側面も垣間見える。
右手がないことを蔑ろにする人達がほとんどである中、元夫は単に、セックスの時点で性癖が上回っているだけなのだが、右手がないことを軽蔑しないという点において、評価するという、仁子のアンビバレントな感情が綺麗に描写されていて、すごいと感じた。
鰻と赤犬のメタファーは?
本作では、鰻と赤犬がメタファーとして散りばめられて登場してくる。
鰻は女性(ここでは、千種や琴子)を指しており、傷口は粗暴な性癖によるセックスを受けた後の傷つけられた女性を表している。
遠馬は自分が興奮し、下腹部に熱が集中してゆくのを感じる。初めて釘針にかけて釣り上げたためもあったが、裂けて、半ば崩れた鰻の頭を目にしたからだと意識する。
「共喰い」田中慎弥
初めて鰻を釣れた時、遠馬は半ば崩れた鰻の頭(性行為の際に殴られた女性を暗示)を目にして興奮してしまう。本人は、まだこの時は意識していないが、父親の粗暴な性癖が自分の中に湧き上がってくるのを、鰻釣りというメタファーを通じて綺麗に描写されている。
また、赤犬は、粗暴な性癖を持つ父親の遠間への呪縛を暗示している。本作は全体的に「血と性」について描かれており、赤犬の赤は血を暗示しており、また鰻の傷口から血が出る様子も暗示的に描写されている。
遠馬は、なぜ千種の首を絞めようとしたのか?
遠馬は、粗暴な性癖を持つ父親の血を受け継いでいるので、自分も父のようになってしまうのではと恐れつつも、自制して過ごしつつ、父のことを憎んでいた。
しかし、先ほどの初めての鰻釣りを成功させたのち、家に戻ると、父の愛人の琴子から父との間に子供ができたといきなり告げられる。
頭が真っ白になった遠馬は、琴子が結局は、愛人という状態から、父の子を産むという点で、憎むべき父のものとなった事実に混乱してしまう。
もう、琴子は憎むべき父のもとになってしまった、自分は琴子に対してはどうすることもできない、自分がコントロールできる対象は誰か?と考えたのちに千種が思い浮かぶ。そして、その前の鰻釣りで暗示されていた、半ば崩れた鰻の頭(性行為の際に殴られた女性を暗示)を目にして興奮してしまうという父親譲りの粗暴な性癖を今までは自制できていたが、琴子が父の子を産んだということがトリガーになって、自制がきかなくなり、その対象は千種へと向かってしまう。
とはいえ、この時は父と同様に、性行為の際に千種を殴打する、ということはせず、首を締めかけるのみという、すんでのところで自制心が働き、なんとか思いとどまるものの、千種からは拒絶されてしまう。
仁子は女として見てもらう方を取ったのか?
物語は、仁子が父、円を右手の義手で殺すという劇的な結末を迎える。
仁子の義手は、円が使い物になるように作ってもらったものであったが、限界が来ており、義手とともに円を殺すことで、自分の中で全て責任を取り、完結させようとする意思が見受けられる。実際に川から上がってきた円の死体には義手が刺さっており、あえて残したのだろう。
仁子さんは国道の向う側の商店街にある自転車屋や時計屋、眼鏡屋に持ち込んだり、ミシン油を差したりしながらだましだまし使ってきたが、そろそろ限界で、いまのものが壊れたら、仕事には役に立たない滑らかな義手にして、思い切って人を雇うか、店をまるごと誰かに譲ろうと考えているようで、その中には遠馬も含まれているらしかった。
「共喰い」田中慎弥
義手は、仁子と円の性関係を暗示しており、離婚するまでは性行為中に暴力を振るわれていたものの、それは裏返すと「女」として見られていたということでもあり、義手が使い物になりにくくなっているということは、円から半年くらい前から女として見られなくなっており、そのことを半ば恨めしく思っていたのだろう。そのことは、鳥居で暗示されている。
生理の時は鳥居をよけなくてはならないと、古い人たちは言っていた。毎日参っている仁子さんが、うちはもうのうなったけえ自由いね、と半年くらい前に呟いた。
「共喰い」田中慎弥
物語の最初の方では「女として見られなくなったので、自由だわ」と半自虐的に呟いている。
しかし、義手とともに円との関係を綺麗さっぱり洗い流した後、仁子は鳥居を潜らずに、よけた。つまり、円との関係を断ち切ったことで、自分が心の奥底に持っていた女として生きていくという選択肢を、また模索し始めたことを意味している。
性暴力はもちろん社会的にはダメとなるが、それが相対する女性側の視点からすると、女として見られているということに本作では繋がっており、女性側の複雑な心情を綺麗に描き切っているところがすごい。
倉庫のまえで赤犬が、鎖に繋がれたまま死んでいた。
と同時に、遠間の父親の性癖の呪縛も取り除かれたことが、赤犬を通して暗示されている。
全体を通して
性暴力の描写が生々しいという点で、好き嫌い分かれそうではあるが、文章自体は伏線含め、非常に重層的かつ美しく散りばめられており、かつ簡潔で無駄な部分が一つもなく、繰り返し読めば読むほど味が出る作品という印象だった。
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