「乳と卵」で第138回芥川賞を受賞した川上未映子さんの、他の本も読んでみようと思い、amazonを物色していて目に止まった作品。
冬の真夜中の静謐な美しさと、なかなか自分の意思で決断するのを難しく感じる、主人公の心の機微を繊細に捉えた表現力が素晴らしいと感じた。映画化したら新海誠の映画の実写版みたいな情景描写になって、反響ありそう。
あらすじ
「真夜中は、なぜこんなにもきれいなんだろうと思う」。わたしは、人と言葉を交わしたりすることにさえ自信がもてない。誰もいない部屋で校正の仕事をする、そんな日々のなかで三束さんにであった――。芥川賞作家が描く究極の恋愛は、心迷うすべての人にかけがえのない光を教えてくれる。渾身の長編小説。
冬の真夜中の光と自己を重ね合わせる
34歳の主人公の冬子は、人と言葉を交わしたり、普通に会話することがうまくできずに、職場でも煙たがられ、陰口を叩かれてしまう。自分を肯定してくれる存在が誰もいないと感じていたが、25歳のクリスマスイブの自分の誕生日の夜、午後11時を過ぎたあたりに、ふと真夜中を歩いてみようと思い立ち、外に出る。
十二月の空気は張り詰めていたが、目に映る全てのもの(ペットボトルや空き缶、電信柱など)が異様にくっきりとして、自分にだけ何かを語りかけてくれているような気がして、夜の光だけが、自分の誕生日を密かに祝ってくれている気がして、冬子は、以降、「冬の夜の光」に興味を持つようになる。
昼間のおおきな光が去って、残された半分がありったけのちからで光ってみせるから、真夜中の光はとくべつなんですよ。
【すべて真夜中の恋人たち】川上未映子
実社会ではあまりうまく馴染めず、息苦しいものの、本人は真面目で、校閲という仕事に対しても直向きに向き合っており、頑張って生きているのであって、昼の大きな光である社会にうまく馴染んでいる一般人の後の、夜の光という存在に自己投影していたのではないかと、考え過ぎかもしれないが、感じた。
そしれ、同じ冬の光を、初めてカルチャーセンターで出会った、58歳の三束さんにも感じ、知らず知らずのうちに恋心を抱くようになる。
三束さんの白いポロシャツの肩から背中にかけて、うっすらと白く発光しているようにみえた。
【すべて真夜中の恋人たち】川上未映子
普段は、自ら自分のことや疑問を口にしない冬子だが、三束さんの、否定せずに同じペースでただただ受け入れてくれる雰囲気がそうさせるのか、冬子は三束さんには口をひらくようになり、おそらく、三束さんを、自分を肯定してくれている数少ない存在と感じ始め、同時に恋心も抱くようになったのだろう。
三束さんへの恋の気持ちの始まりも、繊細に描かれている。
三束さんへの恋の気持ちの始まりと、アプローチを繊細に描いている
そして、冬子は三束さんに会いたいけど行動に移せず、でも、頭の中から離れられなくて仕事をしていても上の空になってしまう。推敲に推敲を重ねたメールを3日かけて書き、お酒の力を借りて、もうどうにでもなれという気持ちで三束さんに送信する。三束さんから電話が来ると、激しく動揺して、着信音が鳴っている会田、その場で足踏みしてぐるぐると回転し、気がつくと切れてしまったので、慌ててかけ直すということを繰り返す。ここら辺の描写もとても丁寧。
そして、聞くのが怖いけれども、三束さんに自分のことを好きかどうか、直接聞く場面が訪れる。
「……どんな冬子さんでも、わたしは冬子さんとお会いして話すことはすきですよ」
【すべて真夜中の恋人たち】川上未映子
わたしは、と言いかけて、けれどもそのつぎの言葉がつづかなかった。
どんどんおおきくなってゆく雨の音が肺にたまり、それは言葉になるまえのふるえのようなものを容赦なく吞みこんでいった。気泡を吐きながら沈んでゆくわたしはゆっくりとショルダーバッグに手をのばし、肩にかけ、しずかに立ちあがった。自分でも何をしようとしているのか、わからなかった。どうしたいのかがわからなかった。
ここだけ読むと、「え!?自分も好きで、向こうも好きって言ってるのだから、めちゃくちゃ嬉しいはずなのに、どうしてこんな行動をとってしまうのだろう?」と思ってしまうが、
冬子は、「自分も好きです」と三束さんに伝えた上で、その先に何があるのか分からない、もしかしたら三束さんには奥さんや彼女がいるかもしれなくて、仮に万々歳で両想いだったとしても付き合えないかもしれない、関係は終わるかもしれない。と妄想してしまい、袋小路になり、自ら告白の場面から逃げ出してしまう。
今まで能動的に自ら何かを選択することをしてこなかったので、冬子にとっては三束さんに自分の気持ちを伝えるのも、初めて自らの意思で行動することになり、もちろん、結果として傷ついてしまう可能性があって、それが怖くて、二の足を踏んでしまった。
そして、しばらく、もぬけの殻状態になり、仕事も手につかない惰性の日々を過ごしてしまうが、ある時、
わたしはこれまで、何かを、選んだことがあっただろうか。
【すべて真夜中の恋人たち】川上未映子
わたしは両手のあいだに置かれた携帯電話をみつめながら、そんなことを思った。この仕事をしているいまも、ここに住んでいることも、こうしてひとりきりでいるのも、話すことのできる人が誰もいないことも、わたしが何かを選んでやってきたことの、これは結果なのだろうか。 どこか遠くのほうでカラスの鳴くのがきこえ、わたしは窓のほうをみた。それから、何も選んでこなかったのだと、思った。
と思うようになる。
この冬子の心変わりの部分の描写も丁寧に描かれている。そして、最後は、アルコールの力を借り、服も変えて、いつもはしないお化粧も美容師の方にしてもらって、より意志の強さを感じさせるようなクッキリしたメイク顔になって、外見から準備万端の状態にした上で、
三束さん、わたしは三束さんを、愛しています
【すべて真夜中の恋人たち】川上未映子
と、本人の直接伝える。伝えてしまうと、涙が自然と溢れてしまう。
誰かにただ見守られながら泣くことが、こんな気持ちのするものだということを、わたしはこのときにはじめて知ったのだった。
【すべて真夜中の恋人たち】川上未映子
このシーンは、生まれたての子鹿が頑張って自力で立ちあがろうとするのを見ているような気になり、「頑張れ、冬子!」と思わず応援したくなる気持ちになった。
クライマックスでの冬子と聖のぶつかり合い
この物語には、三束さんへの恋心とは別に、冬子と、真逆の性格である仕事仲間の聖とのぶつかり合いがクライマックスで描かれている。
歯に衣着せぬ感じ自分の意見を言い、同僚や上司にぶつかっていく聖は、一見、自己主張を全くしない冬子とは真反対の人格として描かれている。
ただ、恋愛に関しては、あまり特定の人と深く関わらないプラトニックな恋愛をしており、相手に対して踏み込みすぎると、自分が傷つく可能性があるので、付かず離れずの楽な距離感を保っている。
なぜ、仕事ではガツガツ周りに物を言っているのに、恋愛になるとという感じだが、仕事は人間関係の問題に見えてそうではなく、システムや状況の問題であるからと描かれている。なるほど、仕事だと、一応共通目標があり、物事をつつがなく遂行させるという正義を盾にとって、感情には立ち入らずに他人と話をできるので、恋愛とは違い自分が傷つかずに済むのだろう。
「違うな。寛大っていうとなんか偉そうだけど、あまり色々と面倒臭いことを考えないで済むっていうか。そういう相手となら滅多なことじゃ傷つかないしね。楽しいことだけを共有してればそれでいいんだもの」
【すべて真夜中の恋人たち】川上未映子
閑話休題、ドラマ「こっち向いてよ向井くん」でも似たようなシーンがあった。
そして、最後、三束さんに告白した帰路で冬子は聖に会う。
聖としては、結局冬子は三束さんに告白したのか、結果どうだったのか、どういう恋愛を歩んでいくのか、歩みたいのかというシロクロした結果を知りたいのだが、あいまいでモヤモヤとして冬子の回答にイライラしてしまう。
「楽なのが好きなんじゃないの?他人にはあんまりかかわらないで、自分だけで完結する方法っていうか。そういうのが好きなんでしょ」
【すべて真夜中の恋人たち】川上未映子
「方法?」とわたしはきいた。
「要するに、我が身が可愛いのよ」と聖が言った。
「でもけっきょく傷つくのがこわいのか何なのか知らないけど、安全なところからはでないでおいて相手に気持ちを汲んでもらって、それで小学生みたいなセンチメンタルにどっぷりひたって自分の欲望を美化して気持ちよくなってるのがはたからみてて、すごくいやなんだよね。きれいごとってそんなにいい? 何がいいの? 軽くみられるのがいやなの? 何か大事なものを守ってるように男にみられたいの? 誰にみられたいの? そういう自分がすきなの? 言っとくけど、それってただのグロテスクだよ」
冬子の場合は、自分が告白したところでどうなるのか分からなず悶々と妄想して自己完結してしまい、他人に自分の考えを共有しないのだが、方法は違えど、他人に対して感情面で深く関わりあうのが怖く、距離を置いて楽に処理してしまうという考えの点で2人は同じである。
聖のこの発言は、聖に対してブーメランになっているし、同族嫌悪から発せられた言葉だろう。
冬子はまさしく、辻村深月さん著「傲慢と善良」に出てくる主人公のようで、謙虚だけど自己愛は人一倍強くて、実際は傲慢が同居し得るような人物像である。
そうした聖の発言に対して、冬子は
「人の気持ちはもっと複雑だし、関係だって……色々あるでしょう」
【すべて真夜中の恋人たち】川上未映子
とわたしは言葉につまりながら言った。
「大事なものは、ひとそれぞれ違うでしょう……それに、なぜあなたに、がんばったって……言ってもらわなきゃいけないの」
とわたしはひとつひとつの音をたしかめるようにして言った。まるで自分に言いきかせるような言いかただった。
「誰もそんなこと言ってないわよ」と聖は眉間にしわを寄せてわたしをみた。
「あなたをみてると、いらいらするのよ」
と言い返す。
自らの意思で何かを選択したことがなく、流されるままに生きてきたものの、与えられたものに関しては精一杯努力して取り組んできているのであり、そうした人の場合、自ら選択して一歩を踏み出すというのは全く違うメンタリティなので相当に勇気がいることである。何を考えているの?あなたの近況は?といきなり話題をふられても、自らの意思で何かを選択していなければ(それが悪いことではもちろんないのだが)、当然、頭の中でモヤモヤとした考えはあっても言葉にはすぐに出ないし、ましてや、何も考えていないから何も出てこない。
でも、言葉にすぐに出ないからといって、もちろんその人が何も考えずに生きているわけではなく、心の中は複雑で、もしかしたらより繊細に世の中や周囲を捉えているかもしれない。
ただ、それは、いつも自己主張をはっきりしている聖からすると、「あなたをみてると、いらいらするのよ」という言葉に凝縮されているが、何も考えていなくてボォっとしているように見えてしまう。
その違いが、クライマックスで如実に綺麗に描かれていた。
面白いと感じた表現
最後に、面白いと感じた表現をピックアップ
すこしだけ悪意をふくんだ無関心
【すべて真夜中の恋人たち】川上未映子
安っぽい精神的セレブ病
幸せ系っていうか、満たし系っていうのかな
頭のなかにある何もかもがだんだんと均質にならされてゆき
退屈と停滞を、平和とか安心なんかと取り違えてるんだよ
まあ愚痴というか、陳情されるのよね
質問に質問でかえすのは次元があがることになるのでだめなんですよ。ひとつめの質問の内部で終わる質問じゃないと
味というのは頭でつくっているものですから、まだカテゴリーがないので
真夜中を歩いてみよう
全面的には深刻にならないこと
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